【報告】「現代社会論A」講義記録

投稿日:2016年11月14日

「現代社会論A」(担当:渡邊登)は、現代社会における多様な課題を認識するとともに、その課題の発生メカニズムと解決策を社会学の諸概念によって検討することを通じて、問題解決の学として社会学の意義を理解することを目指している。
これら理念の実現のため、本学が立地する新潟県内で発生した新潟水俣病について、多くの学生が正しく理解し関心をもつ一助とするため、専門科目として現地学習を含めた連続講座を開催する。これにより、公害に関連する社会的・政治的・経済的背景を理解するとともに、学生に新潟水俣病の教訓を伝える。また、身近な題材を通じて社会学の役割を見つめることで、新潟水俣病の教訓をこれからの社会に生かしていくことを目的とする。
なお、本講義・実習は新潟県の新潟水俣病情報発信事業の助成を受けて実施している。

第1回(10月4日)

第2回(10月11日)

今回は、一般社団法人あがのがわ環境学舎の山崎さんをむかえ、新潟水俣病が発生してからこれまでの経緯について詳しくお聞きしました。
まず、新潟水俣病が起こった原因として、当時の社会背景についてお話しいただきました。高度経済成長期において鹿瀬地区は最先端地域であり、ハイカラな服を着る人々がいたといいます。昭和電工は鹿瀬地区に「光」をもたらした会社であり、住民の生活と密接に関わっていました。しかし、肥料として使われていた石灰窒素の需要が減少すると、慢性的な赤字が続くようになったといいます。それから昭和電工は有機化学製品を製造しはじめ、その後、有機水銀が流出しました。このような背景からわかるのは、昭和電工の過ちの背後にある社会の移り変わりです。私達の生活自体が間接的に公害問題をつくりだしていることに気づかされました。
阿賀野川流域地域で取り組まれている地域再生活動についてもお話しいただきました。具体的には、環境学習やイベントなどを通して地域のことを広く発信するとともに、地域内の寄り合いを通して「もやい直し」をされているとのことです。それらの活動を通して、様々な流域団体と協働することができるようになったり、地域の人々から様々な本音を引き出すことができるようになったといいます。また、地域資源を活かした商品開発や地域産業を巻き込んだイベントの開催などをされているとのことです。このようなお話をお聞きし、「新潟水俣病発生の地」としての暗いイメージから一転、住民の皆さんが活き活きと活動に取り組まれている様子が想像できました。1011

第3回(10月18日)

今回は、ふれあい館の井上さんと阿賀野患者会会長である山崎さんにお越しいただき、被害者側から見た新潟水俣病についてお聞きしました。
山崎さんは、水俣病の症状が発症してからしばらく水俣病であることを知らなかったそうです。お母様が認定患者になってからもそのことを子供達に隠していたといいます。その背景には、周囲の人からの水俣病患者への差別や偏見、それに対する山崎さん自身の恐れがあったそうです。
当時、患者のなかには、「ニセ患者」や「死んだら地獄へ行く」と言われる人、周囲の目を気にし「山崎さんが来ると水俣病だとわかるから来るな」、「顔を写さないでくれ」と言う人がおり、水俣病であることを隠していたそうです。また、今でもそれは続いているといいます。
山崎さんは、裁判や語り部の活動を通して、水俣病は伝染病ではないことや奇病ではないことを伝え、差別や偏見をなくそうと努力されています。そのような活動を通して、患者ではない方に「山崎さんは皆のために頑張ってるんだね」と言われ、とても嬉しかったと言います。しかし、現在も裁判、差別や偏見は続いています。山崎さんは、一人でも患者がいなくなるまで活動を続けていかれるということでした。
今回のお話しから、差別や偏見は根強いということ、周囲からのまなざしを感じ取ることによって自身を差別するようになるということ、裁判や日々の活動を通して51年経った今も努力をされている方々がいるということを知ることができました。

第4回(10月25日)

今回は、新潟水俣病第1・2次訴訟の弁護団長であった坂東弁護士にお越しいただき、お話しをうかがいました。
まず、坂東先生が弁護士として新潟水俣病に関わるまでの経緯をおしえていただきました。坂東先生は、新潟県に生まれ、大学進学のために上京したといいます。そこで、先生から「坂東くん、司法試験を受けてみたらどうかね」と言われたのをきっかけに猛勉強し、司法試験を受けたそうです。弁護士生活の中では時に怖い場面に出くわすこともあったとのことで、様々な経験を通して弁護士としての力を培われたのだと考えさせられました。
その後、水俣病患者の方々とのお付き合いについてお話しいただきました。先生は、熊本の水俣にも通われ、そこの患者さんたちともお付き合いをされていたそうです。当時の水俣の患者さんは、水俣病発生の起因となった会社(チッソ)から少額の「見舞金」を受け取るのみというひどい状況にあったといいます。「「見舞金」というのは、なさけであり、責任を認めていないということ」という言葉が印象的でした。
また、先生が訴訟の際に使用した「猫400号の実験をしるした細川ノート」についても説明していただきました。窒素水俣工場附属病院院長であった細川医師による猫に酢酸系排水を投与する実験であり、猫は結局死亡したもののその後実験は続けられなかったとのことです。その背景には、チッソ内の関係者による拒絶や液体の紛失などの妨害があったとのことでした。
以上のようなお話しをお聞きし、患者への風当りが厳しい世の中で常に患者側に立ち、訴訟を戦い抜いてこられた坂東先生に感服するとともに、その意思をつないでいかなければならないと実感させられました。1025

第5回・第6回(11月1日・8日)

今回は、映画「阿賀に生きる」を鑑賞し、その後、安田患者会事務局長の籏野さんと新潟大学名誉教授の大熊先生に映画製作の裏話をお聞きしました。「阿賀に生きる」は、阿賀で暮らす人々の日々の生活をとらえた貴重な映像です。そこには、自然や周囲の人達と共生しながら強かに生きる住民の姿が映しだされています。その中には、時折、水俣病の症状に苦しむ姿もあります。しかし、映像を通して、水俣病は生活を織りなす一部であり、それが全てではないということを実感させられました。
映画鑑賞後は、籏野さんと大熊先生に映画製作の裏話をお聞きしました。まず、「阿賀に生きる」の仕掛け人である籏野さんが、なぜ映画をつくろうと思ったのかをお話しいただきました。籏野さんは、患者に寄り添って運動を続ける中で、「専門家が言う事と患者の言う事にかなりの違いがある」と感じ、患者の日常生活について文化的に発信することが重要だと考えたといいます。その思いに賛同した方々が集まり、3年間かけて映画を制作したということでした。製作委員会の代表であった大熊先生は、カンパ集めのために全国のあちこちへ行かれたそうです。
現在、映画が撮影された集落には、水俣地蔵というお地蔵さんがあります。もともと集落にあったお地蔵さんの隣に建立されたということです。「水俣病によってこじれてしまった集落の人々の仲がうまくいくように」という願いが込められているとのことでした。
最後に、学生から「映画の中で一番好きなシーンはどこですか」と質問を受けた際、映画の中に出てくる方々を思い出しながら和やかな顔で答えている籏野さんを見て、その生活の風景を少し、感じることができました。1101

第7回(11月12日)

今回は、阿賀野川流域の現地学習に行ってきました。まず、千頭寺集落を訪れ、籏野さんと患者会の方々に、新潟水俣病発生以前、以後、現在にわたる様々なエピソードをお聞きしました。その中でも特に印象的だったのは、裁判を始めたばかりの頃、裁判に行くことが周りの人にわからないようにわざと遠回りをして集合場所に行ったというお話しです。そのようなお話を聞き、周りに言えない中でも運動を続けた方々の強かさを実感しました。現在でも、水俣病患者であることを隠す人はいるとのことです。ただ、当時に比べると幾分か過ごしやすくなったとのことでした。水俣地蔵が見守ってくれているのでしょうか。その水俣地蔵も実際にみることができました。
その後訪れたのが阿賀町公民館です。公民館では、あがのがわ環境学舎の山崎さんに阿賀野川流域の環境等についてお話しいただきました。また、お昼には、地元で採れたものふんだんに取り入れたお弁当をいただきました。とても美味しく、感動しました。その後は、引き続き山崎さんに鹿瀬ダム、昭和電工鹿瀬工場(現在は新潟昭和)、有機水銀が川に流れ出た場所をご案内いただきました。かつての写真と現在を対比して紹介いただくことで、繁栄していた当時と現在との違いに驚かされました。
最後には、環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)を訪れ、塚田館長にお話しをうかがいました。具体的には、まず、新潟水俣病発生の経緯、集落の産業、世界の水俣病についてお話しいただき、その後、メディアがどのように水俣病を取り上げ、それがどのように差別・偏見につながったかということを映像資料を用いて詳しくお話しいただきました。水俣病は「伝染病」として扱われ、そのために多くの方が差別の被害を受けたとのことでした。
今回の現地実習を通して新潟水俣病の発生現場を目の当たりし、また、様々なお話をお聞きし、当時の状況を現実感を持って感じることができました。そして、このようなことは二度と繰り返してはならないと実感しました。

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第8回(11月15日)

本日は立教大学の関礼子先生を迎え、新潟水俣病とCSR(企業の社会的責任)についてお聞きしました。具体的には、公害が問題になった当時からこれまでのCSRの連続性と移り変わり、企業には公害を引き起こす体質とそうでない体質があるということ、世界のCSRと日本のCSRの違い、企業の良心などを新潟水俣病の文脈に置きなおしてお話しいただきました。
新潟水俣病は「公害の社会問題化」の原点だということです。公害反対運動を通して公害が社会問題化したことで、企業が積極的に環境問題に関与する意識が培われてきたそうです。新潟水俣病の発生源となった昭和電工も、1995年からそのような取り組みを始め、2008年には世界CSRランキングで308位になったそうです。また、注目されてはいないものの、新潟昭和(昭和電工鹿瀬工場)でも、工場付近のゴミ拾いや現地学習のために使われている場所の草刈りなどが自主的になされているとのことでした。
また、昨年の新潟水俣病公式確認50年事業の際には、昭和電工が準備段階から同じテーブルに着く、鹿瀬工場の内部見学が実現するなど、これまで敵だった側と協力しようという態勢が見られたとのことです。そのような変化を通して、「昭和電工」が「昭和電工さん」に変わるなど、昭和電工を非難していた側にも意識の変化が見られたとのことでした。
最後には「新潟はアピールが下手だ」というご指摘をいただきました。水俣市では、現在、環境に関する様々な取り組みがなされているということです。先生がおっしゃったように、今後「阿賀野川ブランド」「新潟ブランド」の環境育成を通して積極的に地域を発信していくことが大事だと実感させられました。

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