【報告】「新潟水俣病情報発信事業」講義記録

投稿日:2017年11月29日

事業の名称:新潟水俣病情報発信事業(新潟水俣病の教訓を伝える人材育成プログラム)

事業の目的:
新潟大学では地(知)の拠点大学による地方創生推進事業(COC+)を推進しており、COC(Center of Community)機能を強化して、地域社会と密接に連携し、地域社会の課題解決に向けた取り組みを進めている。特に、本学で開講している社会学系科目では現代社会(地域社会)における多様な課題を認識し、その課題の発生メカニズムと解決策を社会学の諸概念によって検討することを通じて、問題解決の学として社会学の意義を理解させることを目的としている。
本事業では、2012年度以降継続して本県の解決すべき重要な課題として新潟水俣病問題を選び、連続講義及び現地学習(実習)を行っており、学生が同問題について正しい理解・関心を深めるとともに主体的に学ぶ場を提供してきており、今年度も2学期に2年次以上の学生を対象に問題を深めるための連続講座と現地学習を組み合わせ、新潟水俣病に関するリアルな問題意識を涵養し、同問題への主体的・自主的な学習を促す。特に今年度は新潟日報とコラボレートし、学生が学んだ内容とそこでの課題認識を(紙面にて)発表して多くの市民への積極的なプレゼンテーションを行い、世論を喚起する。

事業の内容:
1. 本講義に関するオリエンテーション

2. 水俣病問題に関するドキュメンタリーを題材に、水俣病を概観する

3. 新潟水俣病を知る
「環境と人間のふれあい館」塚田眞弘館長による概観

4. 新潟水俣病を新潟水俣病第1次訴訟・第2次訴訟を通して考える
両訴訟の弁護団長であった坂東克彦弁護士による講義

5. 阿賀野川とその流域に生きる人々を知る
新潟大名誉教授大熊孝氏、安田患者会事務局長旗野秀人氏による解説
映画『阿賀に生きる』を題材に、阿賀野川と地域社会との関わり、地域社会における新潟水俣病問題を学ぶ。

6. 阿賀野川流域現地学習
①新潟水俣病に関係する阿賀野川流域(鹿瀬発電所・旧昭和電工・阿賀野市千唐仁ほか)を巡り、現地学習を行う(現地において患者団体との交流を行う)。
②現地学習にあたっては、安田患者会事務局旗野秀人氏のコーディネートにより、新潟水俣病についての解説、当時の地域の状況及び水俣病患者の実情について学ぶ。

7. 熊本の水俣病を知る
新潟水俣病の原点である熊本県水俣市を訪ね、発生現場等(水俣湾埋め立て地・百間排水溝等)を見学、関連資料館で水俣病について学習するとともに、水俣病関係団体等に聴き取り調査を行い、水俣病の詳細な経緯、現状、新潟水俣病との関わりについて把握する。

8. 全国の公害問題の中で新潟水俣病を位置づける
立教大学関礼子教授による講義

9. 水俣市訪問についての報告会
水俣市での現地学習について参加学生が報告を行い、講義参加者全体で共有化する。

10. 総括

第1回

本日は第1回目ということで、本講義に関するオリエンテーションが行われました。新潟水俣病とは、新潟県に流れる阿賀野川地域で発生した有機水銀中毒による公害事件のひとつです。はじめに、渡邊先生から「水俣病についてどれくらい知っているか」という質問が投げかけられたのですが、4大公害のひとつであり、もう解決した問題という認識しかもっていない学生がほとんどでした。本講義では、すでに解決した問題かのように扱われる水俣病に対し、理解を深めるのみならず、水俣病問題の解決とはいったいなにか?ということまで含めて考えていきたいというお話がありました。そのための一段階として、まず「水俣病 魂の声をきく」という映像をとおして、水俣病とはどのような実態で、どのような問題なのかということを知りました。その映像には、様々な方の魂の声がうつされており、一言では言い表せない感情になりました。被害者の方の声にならない声、その両親や兄弟の悲痛な叫び、加害者側の責任としての思いなど…学生にとっても水俣病の現実を知る初めての経験となったようです。症状という苦しみに加え、水俣病に対する周りからの差別や人間として自由に生きる権利が剥奪されている状況は、この水俣病のみならず、福島の原発事故などほかの問題ともつながることであると思いました。水俣病にどう向き合っていくべきか、自分たちは一体なにをすべきなのか、正直まだわからないし、簡単に言えることでもありません。しかし、この問いを考えることは水俣病の問題だけでなく、ほかの多くの暴力の問題を考えることでもあります。今後の講義のなかで、水俣病の被害者あるいは関係者の生の声を聴いたり、現地実習をとおしてその問いに対する答えを考えていきたいです。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第2回

本日は、第2回目ということで、そもそも水俣病問題とは一体どのようなもので、今現在どうなっているのかということについての渡邊先生の講義が行われました。渡邊先生のお話によりますと、水俣病患者が多発した漁村では、多くの住民が「魚沸く海」と呼ばれるほど豊かで穏やかな海とともに生活をしていたそうです。海とともに生きる生活のなかで、1954年にそこの海の魚を食べていた猫の狂い死にが報道され、1956年には子どもの集団発生により、水俣病が発見されます。その後、水俣病の患者が増え続ける一方、政府や行政は危険な状況や企業に対し、十分な規制をかけなかったために、住民は魚を食べ続け、被害者が増大していったといいます。この政府の対応の背景には、経済的豊かさを重視する当時の国の方針や状況があり、経済的な豊かさと引き換えに多くの犠牲が生まれる結果となりました。1959年には「報われた患者の努力」として、全く十分ではない見舞金契約が結ばれるとともに、世間が水俣病報道を目にする機会がどんどん減っていきました。そこに、新潟水俣病が発生し、水俣病は他の公害も含めての社会問題へと発展していきます。しかし、その後も解決したといえる状態にはならず、現在も水俣病問題の裁判は続いています。今回の講義で、特に印象的だったのは、社会問題というのはそこに存在するのではなく、構築されるものだということです。水俣病という問題は常に存在しているにもかかわらず、声をあげ、マスメディアなどに取り上げられ、社会がそれを政治的な課題として認識することでしか社会問題とならない。つまり、忘れられ、自分にとって関係ない問題だと社会に認識されると、その問題はどんなに重要な社会問題だとしても問題にはならないということです。水俣病問題を伝えていくことの意味は、水俣病問題を社会問題として認識する人を増やすことでもあると思いました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第3回

本日は3回目の授業でした。はじめに、水俣病についてのDVDを2本見ました。そのうちの1つは、当時の水俣病の患者さんや水俣病にかかった猫の映像など、今まで説明で聞いてきたことがリアルに映像に残されていました。そのあと、環境と人間のふれあい館の塚田館長にスライドを使いながら、DVDの映像の解説や水俣病問題についての詳細なお話をしていただきました。当時の患者さんの具体的な様子、裁判に至った経緯など塚田さんだからこそわかるお話が多くありました。4大公害のなかで、一番最初に裁判が始まったのは、4つのなかで一番最後に起こった新潟水俣病でした。昭和電工の総務部長の「国が昭和電工の廃液が(水俣病の)原因と結論を出しても絶対に認めない」という発言を受けて、訴訟に踏み切ったとのことでした。自分たちが裁判をしなければ、子どもや孫たちまで苦しめることになるとの思いだったそうです。裁判はその公害を社会問題にする意味があるだけでなく、未来への責任として始まったことがわかりました。また、塚田さんは水俣病に対する差別について、実際に言われた言葉や体験などを入れながらお話ししてくださいました。私たちは今まで道徳の授業や学校のなかで「差別はいけない」「いじめはよくない」と何度も教えられてきました。しかし、それでも福島の原発事故の被害者も経験したように、いじめや差別はなくなっていません。単にきれいごとの教え込みによる差別やいじめの防止は思ったとおりの意味をなしていないのかもしれません。自分がいつでも加害者にも、被害者にもなりえるということを自覚したうえで、本当に差別やいじめをなくすためにはどうしたらいいか考えていく必要性を感じました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第4回

本日第4回目は、水俣病新潟訴訟の弁護士の坂東克彦さんにお越しいただき、水俣病訴訟に関するご自分の経験をお話していただきました。今回は、坂東先生がいらっしゃるということで、学生以外にも多くの関係者の方がお話を聞きにきました。坂東先生は、自分が中央大学に入学するきっかけになった話から今に至るまで、時系列ごとにお話してくださいました。水俣病に関わり始めたきっかけは、熊本の水俣で水俣病を患った子供たちと実際に出会い、「なんてかわいそうなんだろう。どうしてこんなひどいことに・・・」と怒りを覚えたことだったそうです。いつもと変わらぬ生活をしていただけなのに、病気を患ったことで、自分で口に水を運ぶことも、普通に会話することも、恋をすることもできないんですよと、本当に悲しそうにおっしゃっていました。また、坂東先生は写真や映像を見せながら、お話してくださったのですが、その際にひとりひとりお名前を言いながら、説明する姿が印象的でした。弁護士として、患者さんを「水俣病の患者」とひとくくりにして見るのではなく、固有名詞をもつ〇〇さんとして、ひとりひとりと向き合ってきたことがわかりました。私たちは「水俣病の患者」とひとくくりにして見てしまうことで、知らない誰か、自分とは関係のない誰かにしてしまい、そのことが自分と水俣病の問題を切り離している気がしました。弁護団長として水俣病と戦っていた際に、全国の和解のケースが増えたことで新潟もそうすべきだという機運が高まり、坂東先生をおろすような声が多くなったそうです。結果的に、坂東弁護士は団長を辞任することになり、家に帰って悔しくて泣いたと当時を思い出して、声をつまらせていました。当時本当に悔しくて、苦しかったことが伝わってきて、胸が痛かったです。坂東先生がいかに強い信念をもって水俣病と戦ってきたか、弁護士として、患者さんの気持ちに寄り添ってきたかこの講演で伝わってきました。それだけでなく、講演を聞きにきた多くの市民の方や弁護士の方の質問やコメントを聞いていると、坂東先生の信念を貫く姿に共感を寄せる人が多かったことがわかりました。学生からの「私たちはなにができるでしょうか」という質問に、明日とか明後日ではなく今日からとおっしゃっていたように、いつかやる、できるようになったらやるではなく、今できることから始めることの大切さを教えていただきました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第5回

本日は5回目の授業で、前半は『阿賀に生きる』という映画を見ました。この映画は自主制作映画で、一般の人々にカンパを呼び掛け、そのお金によって作られました。この日のゲストである旗野秀人さんが映画の監督である佐藤真さんに、阿賀を舞台にして映画を撮ってほしいと頼んだところから始まったそうです。その呼びかけに応じた佐藤監督をはじめとする7人のスタッフが阿賀野に住みこんで、撮影を行います。映画に登場するのは、女優や俳優ではなく、阿賀に住んでいる一般の人たちです。台本ややらせといったものもなく、阿賀に生きる人たちの日常を淡々と映していくという不思議な映画です。また、もっと変わっているのは、その映画に登場する方々は水俣病の患者さんなのですが、それを感じさせるシーンがほとんどないということです。裁判に向かうシーンですら、日常の中のひとつの出来事として映されています。ただ、まさに日常のなかの一コマとして描かれるシーンに水俣病被害の実態が埋め込まれており、よりいっそう被害の重さが伝わってきます。ただ、それ以外は阿賀の自然とともに生きる人々が農作業をしたり、船を作ったり、近所の人たちとお酒を飲んだり、そういった日常がうつされているだけで、水俣病患者ということを忘れてしまうほどです。そういった日常の風景を映す映画にしたかったということは後半のお話でわかりました。後半はこの映画を作るきっかけになった旗野秀人さんと『阿賀に生きる』製作委員会代表の新潟大学の名誉教授である大熊孝さんにお越しいただき、映画の解説をしていただきました。そこで、水俣病の問題を前面に出す映画にするのではなく、自然と共に生きる人々の生活を描く映画を作りたかったと語っておられました。お二人のお話はお二人だからこそわかるお話や、この映画のひとつひとつのシーンの意味を説明してくださり、より深く映画の意味を知ることができました。お二人がおっしゃっていたように、シーンの節々に、自然に対するリスペクトや畏敬の念が見られ、自然と共生することの豊かさが感じられる映画です。また、人と人とのつながりがある生活、当たり前のように家族や友人とお酒を飲んだり、ご飯を食べたりできる日々がいかに豊かで、幸せなことかが映画を見ていると伝わってきます。水俣病を文明がもたらした災害と捉えるなら、文明がもたらしたのは本当の豊かさだったのか。本当の豊かさとは一体何なのだろうかということを考えさせられる映画でした。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第6回

本日は阿賀野の流域学習に行ってきました。『阿賀に生きる』の呼びかけ人でもある旗野秀人さんの案内で水俣病に関する場所を回り、その場所ならではのお話をしていただき、その都度学生が質問をしながら、最後に安田患者会の方々と交流をするという内容でした。はじめに、水俣病の原因である有機水銀を含んだ水が流れてきたといわれる排水溝とその河口を見に行きました。当時は、漁師ではない住民たちも川で魚を捕って食べることがごく当たり前の風景でした。その魚を食べたことで水俣病にかかる方もいたのですが、症状の程度はひとりひとり異なり、患者と一言でいっても色々な方がいたそうです。また、患者であったとしても、症状が見た目に現れない方や、人生を楽しむことを忘れずに生きていた患者さんたちは、ニセ患者と呼ばれていたというお話をお聞きしました。次に、旧昭和電工の工場が見渡せるところへ行きました。旧昭和電工の土地は広大で、いかにこの街にとって大きな存在であったかを物語っていました。実際に、昭和電工によってこの街が潤い、恩恵を受けていたからこそ、水俣病のことは禁句になっていたし、水俣病に対して声を挙げる人が村八分にされることも珍しくなかったそうです。水俣病に地方の繁栄とそれがもたらした公害という難しい問題が関わっていることがわかりました。そのあとは、以前の草倉銅山付近に立てられた草倉地蔵を見に行きました。草倉銅山とは明治期に繁栄をきわめた銅山であり、公害の原点と言われています。その近くにつくられた草倉地蔵は距離を越えて、同じく公害があった足尾の方向を向いており、逆に足尾には阿賀に向かって地蔵が立てられているそうです。これは、公害に関する場所を地蔵でつなぐという運動であり、地蔵によって公害の歴史を語り継ぐ意味もあるとのことでした。最後に、千唐仁集会所で安田患者会の市川新美さんと、中川タミさんとお会いしました。おふたりがいらっしゃる安田患者会は、もともと120名ほどの人数でしたが、高齢化に伴い、今はふたりまで減ってしまったそうです。裁判をするに至った経緯や、裁判の最中の差別や悪口を言われた経験など、とても辛い体験談ばかりなはずなのに、お二人の人柄や旗野さんの話術もあって、笑いが起きる場面もあり、和やかで楽しい時間となりました。お二人と実際にお話してみて、自分たちの中で思い描く患者像がいかに間違っているか、いかに患者さんを神聖化してしまっているかに気づかされました。学生たちからも、お金もかかるなかでなぜ裁判を行おうとしたのか、差別にあっている時患者さん同士どのように励まし合ったのかなど多くの質問がでました。水俣病は単なる公害ではなく、ひとつの村を分断する問題であるということを強く実感しました。もともと仲間だった人や同じ立場だった人が、裁判をするかしないか、認定申請をするかしないかで分かれてしまい、できる人に対して何らかの理由でできない人による攻撃が起きたそうです。今は昔に比べると、そういったことは減りつつあるようですが、当時の辛い経験は患者さんやそのお子さんの中に刻みこまれており、村に深い分断を生み出したことには変わりません。学外実習は、水俣病問題のなかに地方の貧困と繁栄、差別問題と分断、豊かさの再考といった様々なテーマが含まれていることを知る貴重な機会になりました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

第7回

本日は7回目の授業でした。この日は、原発事故のために福島から新潟へと避難した根本久美子さんにお越しいただき、「福島第一原発事故 避難者と今を知る」というタイトルでお話していただきました。根本さんは、原発事故の被害者なのですが、様々な立場からの情報を提示していただくことで、原発事故とは一体なんだったのか、避難者が今も抱える問題とはなにかが広く深く理解できました。まず事故当時の様子についてのお話していただいたのですが、根本さんは自分が原発事故が起きた第一報を聞いた張本人ではないかと言っておられました。災害時、たまたま隣にいた警察官のトランシーバーに原発が爆発しましたという情報がはいり、その警察官が何度も本当かどうかを確認しているのを目撃したそうです。また、原発で働いていた社員の人が福島から避難するバスに乗っていたところ、他の社員の人に連れ戻されているにもかかわらず、泣いて避難したがっているのを見て、ただごとではないことを察したと言っていました。そういったその場にいたからこそわかる、リアルな臨場感のある体験談をたくさん聞くことができました。事故から7年が経とうとしていますが、今福島県は避難者を故郷に呼び戻そうとして、様々な取り組みをしているそうです。しかし、今も残り続ける放射能の恐怖や治安の悪化、安全教育の不信感、国や自治体が健康を保証してくれないなどの理由から、福島には帰りたいけど、帰れないと思っている方も多くいます。仮に戻れたとしても、「避難者」として差別をされたり、子どもたちはせっかく慣れた環境からまた別の環境へ移動しなければならないなどの問題があります。一方で、避難している先でも、いじめ問題や住宅手当の打ち切りなど、どちらの選択をしても、避難者たちには計り知れない苦しみや悩みがのしかかっているのです。さらに、子どもたちの甲状腺がんは増えていると根本さんがおっしゃっていたように、子どもたちの健康になにかがあるかもしれないという恐怖と常に隣り合わせで生きていかなければなりません。だからといって、東京電力が悪いと言えば解決する問題でもなく、むしろ原発で働いている人たちも同様に差別に合い、そのストレスで精神的な病にかかる人もいるというお話もありました。誰が悪いということでは解決できない大きな構造的な問題が水俣病と同じように存在し、私たちは本当の豊かさとはなにかを考える必要がある時にきていると感じました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)
※第7回目の授業は、新潟水俣病情報発信事業の助成による連続講義ではないが、水俣病被害と福島第一原発事故の被害・被災の問題の構図には通底するものを理解してもらうために、当事者団体であるNPO法人スマイルサポート新潟の根本久美子さん(理事長)に特別講義をお願いしたものである。

第8回

本日は8回目の授業でした。生活世界のなかの新潟水俣病という題名で、環境社会学の関礼子先生にお越しいただき、講義をしていただきました。講義という形でしたが、学生とのやりとりを交えながら、参加型で授業をしてくださったのがとても印象的でした。まずはじめに、学生たちに、いつ何で新潟水俣病を学んだかという質問がなされ、学生たちは圧倒的に小中学校の社会あるいは総合の授業で暗記すべき事実として学習したという回答が多かったです。また、渡邊先生はニュースで知ったということや関先生が知った時のお話をしながら、同じ時代に生きていても、ひとりひとり知り方や捉え方は異なるというお話をなされました。そのあと、阿賀野川というのが、どんな川だったのか、そこにはどんな生活があり、どんな風景があったのか、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』にそって説明されました。バードによると、阿賀野川は生命があふれる場であったといい、関先生はそこが単に稼ぐ場というのではなく、生活も遊びも宗教的な要素もあったところだったとおっしゃっておりました。そういった生活世界を理解しなければ、本当の水俣病を理解できないとのことでした。そして、新潟水俣病はそういった豊かな生活世界の転換点に起きた出来事であり、国のあり方に伴い、地域のあり方も変わった時だったそうです。新潟水俣病を「自然を放棄する文明の負の側面」としていかに記憶し、受け継いでいくかは私たちが考えなければいけない問題です。これは前回の原発の問題にも通ずる課題であると思いました。また、熊本の水俣病だけで十分ではないかとよく言われるが、それだけでは十分ではないと関先生はおっしゃっています。新潟水俣病が阿賀野川の周辺ならではの地域性をもつこと、公害問題を社会問題化するきっかけであったこと、独自の向き合い方をしてきたことなどが理由として挙げられました。そして、関先生は水俣病を学ぶことで、社会を見る考え方や見方を身につけること、自分はどう考え、どう行動したかを考えることが大事だとお話していました。説明が一通り終わったあと、学生たちは水俣病を表すキーワードを書き、それが一体どんな意味かを関先生とディスカッションを行いました。キーワードとしては「記憶」「負の遺産」「伝える」「思い込み」「語り継ぐ」など思い思いの言葉が挙げられていました。今までの授業で水俣病に関してそれそれが何を学び、何を感じているのかを言葉にしたり話すことで、学生たちの学びが深まったことが目に見える形になり、最終講義のひとつ手前の授業としてふさわしいまとめとなりました。 中原澪佳(現代社会文化研究科)

カテゴリ:記録・報告