【報告】「新潟水俣病情報発信事業」講義記録

投稿日:2019年01月25日

「現代社会論A」
新潟水俣病関連情報発信事業補助金の助成を受けて2012年度以降、継続して本県の解決すべき重要な課題としての新潟水俣病問題に関する講義と実習を行っており、学生が同問題について正しい理解・関心を深めるとともに主体的に学ぶ場を提供してきている。
今年度も2学期に3年次以上の学生を対象に同問題についての認識を深めるために連続講座とリアルな理解を促すための現地学習を組み合わせ、新潟水俣病に関する問題意識を涵養し、同問題への主体的・自主的な学習を促した。
また、本講義・実習で得られた課題認識を広く一般市民に向けて発表するための報告会も2015年以降開催しているが、特に今年度は本学と同様に新潟水俣病情報発信事業に基づく講義・実習等を行っている新潟県立大学、新潟医療福祉大学と共同で成果発表の場を設けた。

Ⅰ 授業シラバス

・本講義に関するオリエンテーション

・新潟水俣病を知る(10月16日)
講師:塚田眞弘氏(「環境と人間のふれあい館」館長)

・阿賀野川とその流域に生きる人々を知る(10月23日)
解説:大熊孝氏(新潟大名誉教授)、旗野秀人氏(安田患者会事務局長)
映画「阿賀に生きる」を題材に、長年新潟水俣病問題に関わってこられた方々を招き、阿賀野川と地域社会の関わり、地域社会における新潟水俣病問題を学ぶ。

・新潟水俣病語り部たちの「語り」を聞く(10月30日)

・阿賀野川流域現地学習(11月10日)
① 新潟水俣病に関係する阿賀野川流域(鹿瀬発電所・旧昭和電工・阿賀野市千唐仁ほか)を巡り、現地学習を行う(現地において患者団体との交流を行う)。
② 現地学習にあたっては、安田患者会事務局旗野秀人氏のコーディネートにより、新潟水俣病についての解説、当時の地域の状況及び水俣病患者の実情について学ぶ。

・中間総括(11月20日)

・水俣病問題と福島第一原発事故についての共通性(11月27日)
福島からの避難者の現状について知る

・熊本の水俣病を知る(11月30日~12月2日)
新潟水俣病の原点である熊本県水俣市を訪ね(11月30日~12月2日)、発生現場等(水俣湾埋め立て地・百間排水溝等)を見学、関連資料館で水俣病について学習するとともに、水俣病関係団体等に聴き取り調査を行い、水俣病の詳細な経緯、現状、新潟水俣病との関わりについて把握する。(同回については事前にレポート等の提出によって訪問学生4名程度を選ぶ。)

・総括

・ときメイトにて発表会(新潟県立大学、新潟医療福祉大学と合同)

Ⅱ 講義及び現地実習の概要と受講生によるコメント
以下では、シラバスに沿って授業の概要とそれについて受講生のコメントを掲載します。

・新潟水俣病を知る(10月16日)
講師:塚田眞弘氏(「環境と人間のふれあい館」館長)

今回の授業では「新潟県立環境と人間のふれあい館」館長の塚田眞弘さんにお越しいただき、近年の新潟水俣病関係のあゆみについて教えていただきました。
前半はDVDを見て、全国紙の新聞記者たちが水俣病をどのように報じてきたのかを学びました。そこには、当時熊本では一言もそのような発言がなかったのにもかかわらず、水俣病は「伝染病」であるという誤報がされていたことが説明されていました。また、水俣病の原因があいまいなまま「見舞金契約」がされ、それによって患者の補償問題が「解決」と報じられ、過去の話となっていったことが描かれていました。そして、当時の水俣病の患者さんが、手足のマヒに苦しみ、実家に入れてもらえないなどの差別にあっていたということを涙ながらに語っていました。
後半は塚田さんにDVD映像の解説や、環境と人間のふれあい館建設に至った経緯についてスライドを使いながら詳細にお話をしていただきました。新潟水俣病の第一次訴訟は、弁護団幹事長の坂東克彦さんを中心とした原告側が1971年9月に勝訴を確定させ、このことはメディアに大きく取り上げられました。しかし、そこには原告全員の名前がフルネームでいくら請求されたのかが報じられていたので、近所の人に裁判に参加していたことを明らかにされ、更に「自分より軽い症状のお前がなぜ自分より高いお金を得るのか」という新たな差別の対象へとなってしまったそうです。また、新潟水俣病の資料館が「環境と人間のふれあい館」という名称になったのは、水俣病被災者の方が、再び苦しい思いをされてしまうことを懸念してのことで、施設の名称には「水俣病」の文字は使用しないが、内部では使用するという条件で施設の名称は決定されたとのことでした。
【コメント】
新潟水俣病の教訓を後世に伝えていくために環境と人間のふれあい館は建設されました。発生から50年以上たった今でも、見えにくい症状や偏見に多くの人が苦しめられています。今回の講義で印象的だったのは、社会問題というのはマスメディアなどの取り上げられ方によって、作られるものだということです。水俣病という問題は、そこにずっと存在していたのにもかかわらず、メディアが「解決」と報じたことにより、世間では「過去の話」となりました。つまり、それがどれだけ重要な問題だとしても、自分にとって関係のない問題と社会に認識されてしまうと社会問題にはならないということです。だからこそ、新潟水俣病を後世に伝えていく活動は、水俣病を社会問題として築き上げていくための活動なのだと実感しました。(人文学部4年磯部航)

・阿賀野川とその流域に生きる人々を知る(10月23日)
解説:大熊孝氏(新潟大名誉教授)、旗野秀人氏(安田患者会事務局長)

「阿賀に生きる」は、水俣病の認定に関わるシステム闘争の中で見過ごされていた、阿賀野川流域で自然と共生して生きる人々の日常生活や人生を映した作品である。鹿瀬集落に住む長谷川さん夫妻はたった2人で歴史ある田んぼを守り続けている。またある日、鍵釣りをしたいという長谷川さんの一言から名人会などが協力して、伝統の鍵釣りで数十キロもあるサケを釣り上げていた。
舟大工の遠藤武さんは昭和60年から舟を作りはじめ、今まで弟子をとらずに200隻ものの舟を一人で作り上げた。いったんは舟づくりをやめたものの大工に舟づくりを教え、一隻の舟を完成させる。
鹿瀬町で暮らす江花さんはかつて昭和電工に勤めていた人物であり定年後は地殻変動調査の仕事を行っている。電工の社員で昭和電工の行いに対して訴えを起こしたのは江花さんただ一人であり、昭和電工を売るのかと周囲の人々に言われたことから昭和電工が撤退してもなお村人の心の中に昭和電工が生き続ける様子を語っていた。
餅屋の加藤さんは妻と娘と3人で暮らしており、80歳を超えてもなお何十臼も一日に餅をついている。彼らも阿賀野川と結びついた生活をしており家の囲炉裏で家族がとってきた川魚を煮炊きしていたり水量が増えた時はみんなで阿賀野川の様子を見に行ったりしていた。遠藤さんと加藤さんの兄弟の三次さんと仲が良く、加藤さん夫妻と遠藤さんが話している場面があった。そこでは、感覚鈍麻で大きなやけどを負った遠藤さんやけどや加藤さんの妻の指の曲がりなどの水俣病の症状について語られたり映されたりしていた。
この映画は裁判の様子や水俣病の症状、人々の語りが映されているがここで重要なのはそこに生きる人々の日常生活であり、自然と共に生きる人生の達人たちを描いている。そしてその達人たちが水俣病の患者だったということなのである。
製作関係者の大熊先生や籏野さんのお話では、「阿賀に生きる」の、阿賀に生きる人々の日常を映したいという制作目的や意図が語られた。また、人間は地球に生かされ人間だけが我や欲がありそのことについてうしろめたさを持つべきなのではないかという問題提起もこの「阿賀に生きる」やお話の中で問題提起されていた。そしてこれまでの近代の成長が本当に正しかったのか、もやい直しは可能なのか、伝統的な自然と人との社会とグローバルな資本主義の組み合わせは可能なのかという問題が提起されていた。
【コメント】
「阿賀に生きる」を見て印象的だったのは年を重ねても力強く生きる人々の姿で、高齢になっても重労働な畑の手入れをする長谷川さんや大工さんですら難しいという舟づくりを黙々と続けてきた遠藤さんのすごさや、一日にたくさんの餅をつき続ける加藤さんの体力などに純粋に驚きを感じた。こうして自然と共に生きてきた人々の体は強いしたくさんの知恵も日々の生活の中に含まれていると思う。そうした生活に今の文明的な豊かさとは違う豊かさを感じた。大熊先生と籏野さんのお話を通じて自然と共に生きる社会とグローバルな資本主義社会の二つを見直す必要があると感じた。しかし、そう考えてみると作中で映されたような生活をしている人々は今どれくらいいるのだろうか。そしてそれらは受け継がれるものなのか、我々と自然との距離が離れているとしたらどれくらいなのか疑問が浮かび上がってくる。また、資本主義の「豊かさ」を享受してしまった我々が自然と共生するとしたらどのようなつながりが可能なのかも考えていくべき疑問点なのではないかとお話を聞いていて思った。(人文学部4年髙田かおり)

・新潟水俣病語り部たちの「語り」を聞く(10月30日)

(1)語り部小町さんの「語り」を聞く
新潟水俣病語り部たちの「語り」を聞くと題して、新潟県立環境と人間のふれあい館―新潟水俣病資料館の小町さんから、阿賀野川流域での生活実体験と新潟水俣病が発覚し、現在の活動に至るまでのお話を伺いました。小町さんの御家庭は小学生時代、自給自足の生活をしており、阿賀野川の川魚は重要なタンパク源と重宝されていました。川魚は内臓をとって炭火焼きにしたり、お刺身にしたり、味噌/塩漬けにして保存食にして食していたそうです。しかし、新潟水俣病の公式発見により、1965年に行政機関から「魚を食べるな、魚を食べたらすぐに報告するように」という通達が小町さんの家庭に届きました。その後、小町さんのお母さんは1972年に新潟水俣病認定審査を受け、水俣病と認定されました。しかし、その事実を小町さんのお母さんは子どもたちに知らせなかったそうです。小町さんのお母さんが新潟水俣病患者であることが小町さんに知らされたのは、お母さんが新潟水俣病と認定されてから33年後の2005年でした。沼垂診療所の主治医から、小町さんの兄のもとにその事実が伝えられ、お母さんのこどもである小町さん兄弟も水俣病である可能性があることから、診察を打診されたそうです。診察の結果、診察を受けた小町さん兄弟全員に水俣病の症状が確認されました。小町さんは体の痺れや足の攣りなど、体の不調を自覚してはいたものの、それが新潟水俣病による症状とは知らなかったそうです。そこから水俣病について学び始め、顔と名前を明かさないようにしながら、原告側として訴訟の活動をし始めました。新潟水俣病の症状は一気に表に現れるわけではなく、時間の経過とともに現れていったそうです。また、人によって症状の出方が異なるため、見た目ではその苦しみをなかなか判断できません。小町さんも眼の違和感や体の痺れを自覚し、医療機関を訪れたそうですが、脳の神経を侵す水俣病の症状はなかなか発見できなかったそうです。新潟水俣病の裁判は今も続いており、病の苦しみが当事者から消えないことから、今もまだ新潟水俣病の苦しみは続いている状況なのです。
【コメント】
新潟水俣病に苦しむ当事者の方から実際にお話を伺ってみて、今まで映像資料や文献などでは把握しきれなかった新潟水俣病のリアリティを感じました。阿賀野川流域に住んでいた人々にとって魚がどれほどの栄養源であったのかを知ったことで、新潟水俣病の存在が音を立てることなく人々を蝕んでいったという事実や、それに気づくのがどれだけ困難であったのかを思い知らされました。小町さんのお話のなかでも、特に小町さんのお母さんが子どもの将来のことを思って、小町さんを新潟水俣病から遠ざけようとしていたエピソードが印象に残りました。ここから、新潟水俣病は、直接的な症状の苦しみだけでなく、社会から受ける抑圧という間接的な苦しみの両方をもたらしたということがよく分かりました。水俣病のような二重の苦しみをもう二度と経験することがないよう、社会全体で環境問題について学び、取り組んでいく姿勢がいかに大切か改めてよく分かりました。(人文学部3年五十嵐のぞみ)

(2)語り部曽我さんの「語り」を聞く
本講義の後半では、語り部の曽我氏の語りを聞いた。曽我氏の語りは新潟水俣病の当事者という視点はもちろんだが、阿賀野川と深く関係のある水道局で勤務していたということもあり、当時の毒を流す法的な基準、水俣病の原因となったチッソ、昭和電工が当時、有機水銀を流していたことについてどのように思っていたかの考察といったように、その職に就いていたからこそ語ることができる意見があった。そのためか、自然、環境問題についての指摘も多くしておられ、現代で問題となっているマイクロプラスチック問題、日本の福島原発事故による放射線問題について水俣病と結びつけ、わかりやすく、鋭い指摘をされていた。
また、曽我氏は新潟水俣病を患っているが、多くの水俣病患者を見てきている方であるため、「水俣病、新潟水俣病とは」といったものをわかりやすく説明された。そこでは、多くの水俣病、新潟水俣病を見てきたからこそ語ることができる水俣病の恐ろしさ、ニセ患者と偏見、差別された理由というものを語ってくれた。その他にも、当時、多くの人が新潟水俣病の認定をしなかった背景に、認定をしたりすることにより婚姻ができなくなる、会社を辞めさせられるといった社会情勢についても知ることができた。曽我氏の語りからは、水俣病を通しての自然環境の大切さ、水俣病、新潟水俣病の怖さ、新潟水俣病との戦いはまだ終わっていないことが伝わる語りであった。
【コメント】
この語りで私は新潟水俣病とはどのような病気なのか、新潟水俣病を患ったからこそ伝えることができる自然環境の大切さを学ぶことができました。曽我氏が語った水俣病の症状では痺れ、こむら返り、頭痛といったような誰でも経験をするような症状もあれば、画びょうを指しても痛みを全く感じない無痛症、骨の形が変形したり、左右で近視、遠視と異なっていたりと普通ではありえない症状の方もいることを知れました。また、有機水銀の摂取濃度が500ppmでも水俣病であるか外見からわからない人もいれば、200ppmでも命を落とす人もいるというように、水俣病に罹る定義、症状の定義が無いとはこのことなのかと感じました。このような定義が無いことにより、見た目では病気になっているように見えない患者が劇症型の患者よりも大多数でありながら、外見からは水俣病とわからないため、そのような患者は偏見や差別を受けてきた歴史があるのだと理解できました。そして、もしも身近な人が間違った水俣病の知識の人であれば、今回の語り部の曽我氏から語られた正しい知識を適切に伝えないといけないと感じ、また、この新潟水俣病という公害病から自然との付き合い方を考えさせられました。(法学部3年木村成吾)

・阿賀野川流域現地学習(11月10日)

(1)排水口~龍蔵寺中心
11月10日は阿賀野川流域の現地学習でした。「安田患者の会」事務局長の旗野さんに案内していただき、午前中は6か所まわりました。
最初に向かった場所は、実際に工場排水を流した排水口です。1970年代にコンクリートできれいに整備したものの、当時は排水口の上の方にある山に汚染物質を溜めていたため、風雨でその汚染物質が近くにある川へ流れていきました。当時この排水口近くで屋根職人の方々が仕事をし、新潟水俣病を発症したという話を伺いました。しかし山からの汚染物質が含まれた川魚が原因で病気を発症したものの、「水俣病とは川で仕事をする漁師がなるもの」と思われたため、屋根職人の方々は「ニセ患者」と呼ばれたそうです。
次に向かった場所は、昭和肥料という会社に関係する場所でした。元々は鹿瀬の住民の田畑が広がる場所でしたが、昭和初期に昭和電工が100年契約で借りた場所だと知りました。近くにある谷にはかつて昭和電工から出た産業廃棄物の山があり、その山が土砂崩れや雪崩によって民家や川へ流れていきました。三番目は鹿瀬ダムです。ダムでできる豊かな電力を使って鹿瀬周辺の会社は発展してきました。旗野さんからダム建設をめぐる様々なエピソードを伺いました。第二発電所建設の際に、住んでいる場所を強制移転させられた方がいるということも聴きました。四番目に草倉地蔵を拝見しました。草倉銅山で得た利益を使って足尾銅山を開拓したため、このお地蔵様は公害の原点を考える重要なものだと分かりました。このお地蔵様の設置場所に苦労したというお話も伺いました。

五番目に向かった場所は、龍蔵寺にある草倉銅山鉱夫の墓です。約200人の無縁仏の墓を1つにまとめ管理しています。

午前中最後は、丹藤商店*にお邪魔しました。とてもお優しい店主の方でした。(実習生全員お土産をいただきました。)このお店は地域の憩いの場という印象を受けました。水俣病に関しては批判する人や認定申請する人など、多様な立場・考え方がありますが、このお店では立場の違う方々が来て一休みする場所だったそうです。
*丹藤商店については以下の本を参照して下さい。
里村洋子『「丹藤商店」ものがたり』冥土の土産企画、2018年
【コメント】
昭電が鹿瀬の住民の田畑を100年契約で借りたお話や、かつて汚染廃棄物が雪崩や土砂崩れによって山から生活区へ流れてきたお話などを知り、驚きました。昭和初期に100年契約で借りた土地はもう少しで返却する時期になると伺いました。流れてきた汚染廃棄物は、仮に50年経った現在検査を行えば、汚染の問題はないという結果が出るそうです。未解決であり忘れてはならない土地の問題や、環境汚染、人体被害、精神的被害など、この他にも問題は多くあります。しかし50年、100年という時間の経過が、未だ終わっていない多くの問題をまるで解決したかのようにしてしまう危険があると感じました。「時間が解決してくれる」という考え方では、水俣病の教訓を活かせず、これからも水俣病のような問題が繰り返されると思います。(人文学部3年内山莉香)

(2)千唐仁集会所・阿賀のお地蔵さん

昼食後、私たちは千唐仁集会所で、Sさんのお話を聞かせて頂いた。交流会はIさんへの質問形式で進んでいった。Sさんは、新潟水俣病安田患者の会員だ。最初は120人いた会員も現在ではIさん一人になってしまったらしい。彼女は手のしびれ、手足の感覚がない、物を掴めないなどの症状があり、火傷しても気づかないそうだ。しかし、これらの症状は普通の高齢者にもあるため、判別が難しいという。
Sさんは、皆被害者であるのにもかかわらず、差別感情があると語った。裁判に向かう道すがら、悪意のある発言を投げつけられるようなこともあったという。水俣病の話も、患者の会以外ですることはないそうだ。また、安田患者の会はよそ者扱いされ、集会所を使うのにもお金がかかっていたらしい。しかし、阿賀地蔵のお祝い以降は無料で使えるようになり、やっと認められたと感じたそうだ。
また、水俣病の認定基準について、Sさんは似たような症状でも認められる人と認められない人がいるため、どこがだめで認定されないのかわからないと語った。旗野さんによると、認定審査会の基準とSさんの基準が違うという。認定審査会のほとんどの専門家は、素人の話に耳を貸さず、上から目線の審査を行うためだ。
記念写真を撮り、千唐仁集会所を出た後は、阿賀地蔵を見に向かった。阿賀地蔵は、ツツガムシ除けの背の高い地蔵の横に建てられていた。この地蔵は昔から大事にされてきたため、同様に大事にしてもらいたいという思いから横に設置したそうだ。地蔵の後ろには「不知火から阿賀へ」と刻まれている。地蔵は西の方角、水俣の方を向いている。そこから絵本の発想が生まれたそうだ。絵本『阿賀のお地蔵さん』は、県下の小学校に配布され、モンゴル語、中国語、韓国語に翻訳されているという。この地蔵見学で、現地学習は終了した。

【コメント】
Sさんの活動に対し、「まだやっているの」と言う人も存在し、集会所を借りるのにもつらい思いをするという。それでも「せっかく会いに来てくれるのだから」と、お菓子や漬物まで用意して出迎えて下さったSさんに感謝の気持ちでいっぱいだ。
皆被害者であるのに差別・偏見があるのはやるせない思いだ。症状が普通の高齢者と判別が難しいことが差別を助長しているのだろう。また、国が水俣病だと認定すれば差別も減るのではないか。素人であろうと当事者であるのだから、専門家はもっと住民の話に耳を傾けるべきだと思う。
地蔵設置のお祝いを契機に集会所利用が無料になったというお話があった。私は地蔵のご利益を今まで信じたことはないのだが、地蔵が地元住民や公害の原点をつなぎ、水俣病への理解が進むことを願わずにはいられない。(人文学部3年東山春菜)

報告(10月16日/10月23日/10月30日/11月27日)

報告(11月10日)

報告(11月30日~12月1日)

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