モーツァルトは頭を良くするか--「モーツァルト効果」をめぐる科学とニセ科学 (概要)
宮崎謙一 仁平義明

[全文は,現代のエスプリ No.481「嘘の臨床・嘘の現場」(pp.113-127), 至文堂 (2007.8)に掲載]

カリフォルニア大学アーヴァイン校のフランシス・ラウシャーとゴードン・ショーらの研究グループによる「音楽と空間的課題の遂行成績」と題された短い記事が1993年の「ネイチャー」誌に掲載された。それによると、大学生たちに,モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ ニ長調,K448」の第1楽章を聞かせると,空間的思考能力を測る知能検査の成績が一時的に目立って良くなったという。この報告に対してメディアがすぐ反応し,「モーツァルトは頭を良くする(Mozart makes you smarter)」という話がたちまちのうちに広められて「モーツァルト効果」として一般に広く知られるようになった。

この効果についての科学的検証にはおかまいなしに,モーツァルト効果は人々の関心を引き付け,教育産業,健康・心理産業,音楽産業は商品の売り上げを伸ばすのにモーツァルト効果を利用した。モーツァルト効果の主張の中には,自らを科学であるかのように装って,科学的に確かめられていない考えをあたかも確かめられたかのように主張する典型的なニセ科学に属するものもある。

ラウシャーらの研究は,研究グループの中心人物であるゴードン・ショーの脳モデルを行動レベルで確かめるために行われた。しかしこの実験のもとになっている脳モデルは非常に飛躍したアイディアに基づいたものである。またその後の追試研究の結果,モーツァルト効果はきわめて再現性に乏しいことが明らかになった。

音楽が認知機能に影響を与えるかどうかについてはまだはっきりしないが,音楽が聞く人の気分や感情にさまざまな影響を与えることはよく知られていることである。また気分や覚醒(arousal)の状態が認知機能に影響することを示す多くの証拠がある。従って,モーツァルトの曲を聞いた後に認知的課題の遂行成績が向上するのは,モーツァルトを聞くことによる直接的な効果ではなく,音楽によって気分や覚醒が最適な状態になり,その結果課題の遂行成績が向上するという間接的な効果であると考えることができる。

他にも,実験者期待効果とプラシーボ効果の影響を考えることができる。実験者期待効果とは,実験者の期待や予測が,実験者の気づかないうちにその意図に反して被験者の反応に影響を与えてしまうことによって生じる効果のことである。またプラシーボ(偽薬)効果は,実際には薬効がない薬や治療法でも,それを施された人がそれに効果があると信じると,本当に効果が現れる現象を言う。実際にはモーツァルトの曲を聞くことと認知能力の間に何の関係がなくとも,モーツァルトを聞くと頭によいと信じている人には効果が現れる可能性がある。

モーツァルト効果が特定の研究室でだけ一貫して観察されていることから,それらの研究室で行われた実験では,覚醒と気分の変化が交絡しているか,実験者および被験者の期待に由来する効果が組み合わさって働いていた可能性が疑われる。モーツァルト効果に関する議論はまだ続いているが,現在までの科学的検証を吟味してみると,モーツァルト効果を主張する科学的証拠はきわめて乏しいとするのが妥当な見方と言える。

モーツァルト効果がまちがった方向に拡張されて,ニセ科学の領域に逸脱する経過をたどったのは不幸なことだった。しかし音楽がさまざまな心理的あるいは身体的影響を及ぼすことがあるのは確かであり,科学的に研究を続けるべき価値のある問題は少なくない。モーツァルト効果が疑わしいものであるからといって,これらの研究すべき問題までもが捨て去られてしまうことがあってはならない。メディアは,十分な証拠がない時に,現象や効果が科学的に確かめられたものであるかのように誇大に広めることは厳に慎むべきことであるし,人々も,それに便乗したコマーシャリズムに安易に乗せられないように気をつける必要がある。また科学者は,仮説に一致した結果が得られたときに,当初の説明とは別のやり方で説明することはできないかを考えて慎重に結論を出さなければならない。モーツァルト効果をめぐる一連の騒動は,一般の人々と研究者にとって教訓となるできごとだったと言える。