こどもにとっての理想的な音楽環境とは

子どもにとって理想的な環境がどのようなものかは,小さなお子さんをお持ちのおかあさんやおとうさん方にとっては大いに気になるところでしょうが,これは多くの場合たいへん難しい問題です.とくに子どもにとっての理想的な音楽環境ということになるとなおさらです.何が子どもの音楽的能力を伸ばすことにつながるのかについては,昔からさまざまなことが言われてきましたが,現在でもしっかりとした根拠に基づいた答があるわけではないのです.子どもの能力を伸ばす何か特別の魔法のような方法があるのではないかと期待してはいけません.困ったことに,確かな根拠もないのに,何かによくきくとか,能力が伸びる特別の方法があるというような,人々を惑わす話がテレビや雑誌などに最近よく登場します.このような時代にあっては私たちは懐疑的な批判精神でそれらをしっかりと吟味する必要があります.いちばん信頼できることがあるとすれば,それは私たちの健全な常識でしょう.それに基づいて,子供たちにとって望ましい環境を考えていく必要があります.

 子どもがよい音楽を耳にする機会を多く持つことができるようにしてやるのが良いことは間違いないことです.しかしそのとき何が良い音楽であるかについては,人によって意見が分かれるところです.ここでも私たちの健全な常識が問われることになります.ご両親が良い音楽だと考えられるものを幅広く子どもに聞かせるのが良いでしょう.ただその場合,子どもにだけ聞かせておけばよいというものではありません.おかあさんやおとうさんも子どもと一緒に音楽を聞いたり,あるいは歌ったり演奏したりする機会を作ることができれば理想的と言えるでしょう.家庭の中,あるいは子どもの生活環境の中で,音楽環境を考えていく必要があります.

 子どもの音楽環境を考えるときに必ず話題になるのは,早期の音楽教育に関することです.私が研究している絶対音感と関連づけてこの問題を考えてみましょう.絶対音感とは,他の音と比較することなしに,音の高さをたとえばド,レ,ミ,C, D, Eなどの音楽的音高名で言い当てることができる能力のことです.この能力は発達の早い時期 (3-6歳の間) に訓練することによって身につけることができ,実際に早くからピアノのレッスンを始めた人の中に絶対音感を持っている人が多く見られます.このため絶対音感が音楽の道に進むためになくてはならない能力であると考えている人もいるようです.

 しかし本当にそう言えるのでしょうか.メロディや和声を形作る音の高さは絶対的な高さ (絶対音高) ではなく,相対的な高さ (相対音高) です.たとえばある曲がその曲であるとわかるのは,その曲がある決まった高さで演奏されているからではなく,その曲を作っている音高の関係がその曲であることを示しているからです.ですから,その曲の演奏をどの高さから始めても (どの調に移調しても),その曲であることには変わりありません.ある曲を別の高さで演奏すると,その曲を作っている音高はすべて変化するわけですが,それらの音高の関係 (相対音高) が正しく保たれている限り,私たちはその曲であることがわかります.大幅に高さをスライドさせるのでもなければ,高さが変わったことに気づくことさえないでしょう.

 音楽を聞くとき,私たちが受け取っているのは,鳴り響く音の絶対音高ではなく,メロディや和声を作っている音が全体として形作る音高の枠組み (調性) の中でそれぞれの音が果たす音楽的性格であり,それは音階の中で音が占める位置によって決まります.ですからたとえばハ長調 (C Major) の調性では,C-E-Gの和音は主和音と呼ばれてもっとも安定した響きに聞こえ,G-B-Dの和音は属和音と呼ばれて,いくぶん緊張を感じさせ,主和音が次に続くことを強く期待させます.ところがハ長調の主和音は,ヘ長調 (F Major)の調性の中では属和音となってヘ長調の主和音 (F-A-C) を期待させるものとなります.絶対音高の点では同じ高さの音が,まわりの音との関係によって異なる音楽的性格を持つようになるのです.このように他の音との関係の中で音高を認知し,音の性格を聴き取る耳 (相対音感) を持つことが音楽的にはずっと重要です.

 このように見てくると,他の音とは無関係に音の高さを言い当てる能力である絶対音感は,本当の意味で音楽的な能力であるとは言えなくなります.絶対音感を持っていると音楽をやる上で役に立つことがあるのは確かですが,それは技術的なことであり,音楽の本質とは関わりがないことです.むしろ,本当の意味で音楽的に大切な面に耳を開かずに,技術的にすべてを片づけてしまうようになってしまうことが絶対音感の問題だといえます.

 絶対音感が身に付けば,相対音感も自然に発達するという考えもあるかもしれません.しかし絶対音感と相対音感はある意味で矛盾する音高のとらえ方であり,一方が身に付くと他方も自然に発達するというようなものではありません.それどころか,私が行った実験の結果では,音楽専攻の学生の中に,絶対音感を持っていながら,音程を移調したり,異なる調性の中でメロディを識別したりするというような,音楽的に重要な課題がうまくできないものがいることがわかっています.絶対音感が,音楽的に本質的な音高関係をとらえる耳の発達を妨げることになってしまうかもしれないことをこの結果は示唆しています.絶対音感だけでは音楽的に何の意味もありません.子どもが絶対音感を身につけたならば,その後に音高の関係,和声,調性などをとらえる耳を育てるための十分に工夫された働きかけをする必要があります.それをやらないで,絶対音感を身につけさせるだけの訓練ならば,弊害を生むだけだと言えるでしょう.

 もっと詳しく知りたい方で,科学論文を読むことをいとわないという方は,「絶対音感保有者の音楽的音高認知過程を開いてみてください.