掲載日:2023年04月30日
文筆家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)による『1900年ごろのベルリンの幼年時代』(1938年完成稿成立、『幼年時代』と略記)は、作者自身の故郷ベルリンを舞台にした回想作品です。「わたしが小さかったときには―」といったモノローグによって、かつてのベルリンのさまざまな情景が描写されます。しかし、なぜベンヤミンは、自らの幼年時代を書く必要があったのでしょうか。というのもユダヤ人である彼は執筆時、ナチス政権下のドイツを離れた亡命生活を送っていたからです。そして、二度とかの地を踏むことはありませんでした。さらに当時すでに、彼らユダヤ系作家の出版活動はほとんど不可能な状態にあり、実際『幼年時代』は友人たちの手によって死後出版されます。こうした困難な時代にもかかわらずベンヤミンは、故郷の思い出を収めた小さな書物として、つまり「一冊の、ささやかな、本」(1932年11月10日付アドルノ宛書簡)として『幼年時代』を出版することを試み続けたのです。
本書は、このように数奇な成立・出版過程を辿った『幼年時代』にたいする包括的研究です。タイトル「一冊の、ささやかな、本」はベンヤミン自身の言葉を拝借したもので、それじたいが本書の一貫した問いだてになっています。2 箇所の「、」(読点)に違和感を覚えた方もおられるでしょうが、ドイツ語原文でも同じ位置にコンマが打たれています。これはドイツ語の慣例に鑑みて奇妙な書き方です(ドイツ語履修者のみなさんは真似しないように)。だからこそ、まさに訥々と言葉を絞り出すかのような息遣いをこれらコンマから読み取ることはできないだろうか、そして、書物というメディアにたいするベンヤミンの並々ならぬ執念を浮き彫りする必要があるのではないか―このような思いで本書を執筆しました。
1971年に初訳が発表されて以降、『幼年時代』は日本でも多くの読者に親しまれてきました。しかしその一方で、研究しにくい作品としても知られていました。その大きな理由として、遺稿整理に関わる問題が挙げられます。本作品には複数のヴァージョン、メモや覚書など膨大な関連資料が残されているわけですが、これらすべての資料が整理され、そして新たな全集として出版されたのがつい最近の2019年だったのです。
本書はこの新たな版を典拠としているという点で、国際的にも最新の『幼年時代』研究です。さらに手稿や習作など、これまで未邦訳だった資料も多く分析しました。したがって、ベンヤミンが「なにを書いたのか」という内容面と、「どのように書物を編んだのか」という方法面を組み合わせて論じているのが特徴です。本書に触れてくださった読者を、ベンヤミンの作品世界のこれまで知られていなかった、そして魅力的な位相に誘うことができたらと思っています。
(記/田邉恵子、「学部だより」2023年版より転載)